日本画の歴史
日本画とは、伝統的な日本の画法を用いて描かれた絵画のことです。日本画に対し、西洋の画法を用いて描かれた絵を洋画と呼びます。日本画は日本文化の発達とともに様々な発展を遂げてきました。
古く中国から伝えられ、長い歴史の中で形成された絵画。膠(にかわ)を接着材として天然産の色料(近代以降,人造色料も現れた)や墨を用いて表現される。明治以後、西洋伝来の油絵具を使う油絵(洋画)と区別して,これに対して用いられた言葉である。
しかし現在、日本画は大きく変わりつつあり、新しい表現技術の採用などによって洋画との区別はつけにくくなってきている。にもかかわらず、日展でも日本画と洋画は科を異にしている。院展(日本美術院展覧会)のように日本画だけの展覧会もあり、社会通念としてははっきりと区別されている。
日本の伝統的な絵画
日本画の名称が確立するのは明治10年代(19世紀末)、西洋画=油絵に対する語として生まれ、伝統的な日本の絵画を流派・様式の区別なしに、一括して「日本画」と呼称するようになった。したがって、今日日本画とよばれている絵画領域には、広義には大和(やまと)絵(やまと絵、倭絵)、唐絵(からえ)、水墨画、南画、洋風画をはじめ、浮世絵などの風俗画まですべてを含むことになるが、狭義には、大和絵と唐絵の交流によって生まれた狩野(かのう)派や、江戸時代中期以降に発展した円山(まるやま)派、さらに明治以降流行した大和絵風な平面的で装飾的な絵画をさす。
平安時代に中国から伝わったいわゆる唐絵は・・・
日本の自然風土に適合した絵画表現となり、線の引き方、色の配合などに日本人の感覚を生かした繊細優美な画法が案出され、冊子(さっし)や絵巻物を彩った。これを大和絵という。鎌倉・室町時代に大陸から伝わった水墨画は、桃山時代に障屏(しょうへい)画の大作となって発展した。これに大和絵の手法を取り入れて、金箔(きんぱく)や金泥(きんでい)をふんだんに使った濃絵(だみえ)の手法で、寺院や書院造のふすまを飾ったのが狩野永徳(えいとく)らの桃山の金碧(きんぺき)障屏画である。
大和絵はそうした大作のほか、細密描写や風俗表現の面でいかんなく本領を発揮したが、このような大和絵のもつ装飾性も、日本画の伝統的な特色の一つにあげられる。江戸時代、狩野派は幕府の御用絵師として勢力を振るったが、江戸中期になって円山応挙(おうきょ)は西洋の透視画法と日本の大和絵の装飾的な表現を融合させて新しい様式を生み出した。この円山派の画風は、今日の京都画壇に伝えられている。
日本画の絵の具は・・・
鉱物質の顔料が主で、天然の岩を砕いて粉末にした岩絵の具(群青(ぐんじょう)、緑青(ろくしょう)など)、金属粉末などの泥絵の具(黄土(おうど)、朱、丹(たん)、金銀泥など)、水に溶ける水絵の具(代赭(たいしゃ)、藍(あい)、臙脂(えんじ)など)の3種があり、金銀箔なども併用され、紙または絹に描かれる。その際、まえもって礬水(どうさ)(明礬(みょうばん)を溶かした水に膠(にかわ)を混ぜたもの)をひき、絵の具や墨のにじみを防ぐ必要がある。技法的にも、線を引く運筆技法、色彩のぼかしの技法など、日本画独自の伝統があり、油絵技法と比べて、すぐにだれにでもできるというものではなく、かなりの修練を必要とする。
出典:日本文化いろは事典について
株式会社平凡社世界大百科事典